京論壇2017公式ブログ

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北京セッション報告③

こんにちは、エリート主義分科会所属の長谷川です。
今回の北京セッションにおける議論の報告として、「個人」と「日中」をテーマにエリート主義分科会が話した内容を紹介していきたいと思います。

みなさまは「エリート」という言葉にどのようなイメージをお持ちでしょうか。「政治家」「官僚」「大企業の正社員」「汚職」「東大生」など色々なものをあげられると思います。

私たちエリート主義分科会では議論の目標を「エリートの社会における役割を明らかにすること」と設定していました。この目標を立てた理由として、「北京大側も東大側も共に高学歴であるため自分はエリートであるという自覚があり、エリートについての議論は各自の将来について考えるきっかけとなる」という東大側の想定がありました。しかし、以前の議論の進捗報告の際に記した通り、東大側は概してエリートとしての自覚があった一方、北京大側はエリートとしての自覚がほとんどありませんでした。
このようにエリートについての認識が異なる中、どうしてそのような違いが生まれたのか、またどのようにエリートについての認識を共有し目標に向かって議論を進めていくのかが北京セッションでの課題となりました。

北京で各自のエリート観を紹介していくうちに、エリート観は大学間だけでなく、各個人の間でも少しずつ違いがあることが判明してきました。そこで、そのようなエリート観の違いをより正確に洗い出すために、以下の2つの質問を立てました。
A) 「職業Xはエリートであるか?」(Xには様々な職業を当てはめる)
B) 「あなたにとってのエリートの基準は何か?」
この質問を通して、二つの重要な発見をすることができました。
一つには、エリートとしての自己認識が北京大と東大で異なった理由が分かったことです。これはXに「政治上の判断を行う人」と「政治上の判断を執行する人」を当てはめた時に両校の差として現れました。余談ですが、本来は前者を「政治家」、後者を「官僚」としていたのですが、北京大側から中国にとってはどちらも「共産党員」であり両者の区別をすることは難しいという指摘を受けたため、前述のようにXを設定しました。
東大側は前者を「典型的なエリートとは異なる人」、後者を「典型的なエリート」と回答しました。しかし、北京大側はこの質問に対し、前者はエリートであり後者はエリートでない、という全く反対の回答をしました。
なぜこのようにはっきりと対立する結果が出てしまったのでしょうか。その理由を探していくと、最終的には両国の社会背景・政治制度が絡んでいることがわかりました。
日本の読者の方にとっては当たり前のことかもしれませんが、日本の官僚の多くが東大出身という事実からも分かる通り、官僚になり高い地位に就くためには「高学歴」であることが不可欠です。さらに日本においては、学歴が高いことは官僚になるだけでなく大企業に就職する際に有利な条件ともなります。このように高学歴が将来の職業・収入に大きく関係していることから、私たちは「エリート」の必要条件として「高学歴」が強く意識されると結論づけました。このエリートの定義に従う場合、政治家は選挙という必ずしも学歴とは関係のない選考を経ているため「典型的なエリート」から離れていると感じる一方で、私たち東大生はまさに高学歴であるため「エリート」の自覚がある、と解釈できます。(東大生による傲慢な考え方であることをお詫びします)
しかし北京大側は、中国では高学歴に加えて「关系(コネ)を持っていること」もエリートの基準であると主張し、その理由として中国特有の关系の有無が将来の職業・収入・地位に大きく関係している社会構造を挙げました。特に共産党員は入党後昇進していくためには太い关系を持たなければならず、これら关系は家柄、または高い政治的なポストに就くことでしか得られず学歴の力が及ばないと説明されました。この基準によって、北京大側は关系をより保有していると考えた前者をエリートとし、自身については「高学歴」でありながらも「关系」を持たないためエリートではないと感じていたのです。

二つには、全メンバーが共通して持っていたエリートの必要条件を見出せたことです。このことはXに「芸術家」「スポーツ選手」を当てはめた時に、これらの職業の人々もエリートとみなしうると回答したメンバーが北京大・東大共に一定数いたことで判明しました。それまでは、エリートと呼ばれうる職業の条件として高学歴・社会への大きな影響力が挙げられていました。しかし、芸術家やスポーツ選手をエリートとして挙げたメンバーは、その基準として高学歴とは異なる何かがあると感じた、と主張しました。
なぜ「官僚」と「スポーツ選手」が共にエリートとみなされることがあるのか。両者を比較するうちに、その共通点として「競争に勝ったもの」にたどり着きました。つまり、エリートはその職業に就き地位を高くする際には各段階の競争を勝ち進んでいく、ということです。政治家なら選挙、プロ野球選手ならドラフト会議、東大生なら大学受験、場合によっては中学・高校受験など、全てのエリートは必ず何かしらの競争に勝ち進んできたということができるのです。
このように北京大と東大の間にあったエリートに関する認識の溝を、「競争」という基準により埋められたことで、ようやく「エリートの社会における役割を明らかにする」という本来の目標を東京セッションで議論する見通しを立てることができました。

これらの北京セッションでの議論について、私は価値観という個人レベルの話と日中間の差異という国家レベルの話をバランス良く融合できたと考えています。
両校のエリート観の「差」を、各国の社会背景という「国レベル」の「客観的」な情報で説明する一方で、全メンバーのエリートの必要条件に「共通」するものを、各メンバーの価値観という「個人レベル」の「主観」に基づき解決する。
安易な二項対立にまとめることは複雑な議論の中身をそぎ落とす恐れもありますが、常に両者のバランスをとって議論することが重要なことを学べました。

また議論の内容として、「エリート」という言葉の曖昧さ、扱いにくさを改めて感じました。人々が誰かをエリートと呼ぶ時、その基準として「競争」「高学歴」「社会への影響力」など様々なものがあります。しかし、北京セッションを通して、結局それらの基準はどれも必要条件でしかなく、エリートと呼ばれる人には必要十分条件、つまり何か特有の性質、が内在する訳ではない、むしろ他者が「エリートと呼びたいから呼んでいる」だけなのだと気付きました。
「エリート」と誰かを呼ぶ時には、何を期待してその言葉を放っているのか。私自身のようにエリートとしての自覚がある人は、一体自分に何を期待しているのか、それとも恐れているのか。勝手に「エリート」とレッテル貼りされた人達は、社会どのような役割を負うべきなのか、それともただのレッテルとして無視して良いものなのか。
決して容易ではないこれらの質問に、東京セッションで立ち向かっていきたいと思います。

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文科一類1年 長谷川郁