京論壇2017公式ブログ

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北京セッション報告②

こんにちは!先日、北京から戻って参りました、ジェンダー分科会の鎌倉です。
北京セッションでは、北京大生と白熱した議論を交わす充実した日々を送ることができました。

果たして議論が円滑に進んでいくのか、北京渡航前は不安もありました。しかしUT側議長の岡本さん、PKU側議長Eddyのリードのもと、分科会のメンバー皆が積極的に議論に参加し、無事北京セッションを終えることができました。

京論壇北京セッションを支えてくださった皆様に、この場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございました。

さて、今回のブログでは、北京セッションで扱った議題から一つを取り上げ、その議論内容を紹介しつつ、私の感想も併せて記していきたいと思います。



紹介したい議題は、「北京大学東京大学、それぞれの男女比がなぜ違うのか」についてです。東京大学における女子学生の割合は18%と低水準な一方、北京大学では42%。この違いはどこから生じるのか、分科会で議論しました。

東京大学における女子学生の割合は、国際的にみても非常に低水準で、女子学生増加に向けて様々な取組みを行っています。しかしながらそのどれもが大きな変化をもたらすことなく、女子学生の割合は低空飛行を続けているのが現状です。この、お世辞にも良いとは言えない現状の原因として議論で挙がったのが、①女性に対する社会規範の存在、②大学入試制度のリスクです。

まず一点目の女性に対する社会規範とは、「女性は結婚・出産を機に仕事を辞めてしまうから、必ずしも学歴は必要ではない」というものです。このジェンダーステレオタイプにより、女性の高学歴化が否定的にとらえられてしまうのではないか、との意見が挙がりました。

加えて、大学入試のシステムです。日本の大学入試システムでは、(後期試験や推薦入試を除くと)一般的に一年度一回しか国公立大学を受験することができません。従って、国立のA大学を目指して受験し、しかしその受験に失敗してしまった場合、同年度に他の国立B大学を受けてB大学に進学する、ということはできないのです。従って浪人することなく同年度に進学しようとするなら、その学生は他に私立大学を受験し、合格した私立大学に進学することとなります。

このシステムは、東京大学の学生にとって、更には日本の学生の多くにとって、当たり前の前提です。そこに疑いの余地はありません。この記事を読んでいる多くの方々も、なぜこのシステムについて鎌倉はつらつら説明しているのだ、とお思いかもしれません。しかしながら、このシステムは北京大生からすると、異様なものであるらしいのです。中国では一律の試験基準があり(日本ではセンター試験の後に、大学ごと別々の試験が課されます)、その試験で良い成績がとれなくても、その成績順に、上からランクごと並んだ国立大学に入学する資格を得られます。従って国公立大学に入学しようと願う生徒は、試験当日自分の思うような結果が出せず、トップの国公立大学には行けなかったとしても、国公立大学に行く、という選択肢は残されているわけです。

以上の事実より北京側は、日本の現行システム及び社会規範が、東京大学の女子学生率を低下させている理由の一つだ、と考えました。「結婚・出産を機にキャリアを一旦ストップさせる女性には高学歴が必要ない」との社会規範があり、かつそのような社会規範のもとでは「男性と比べて、女性にかけられる教育費用も制限される」ことになります。そうなると、「浪人期間を生み出すかもしれない」または「国公立大学に比べ、学費が高い私立大学に通うかもしれない」といったリスクを冒してまで、女子学生が東京大学を受験しようと思うインセンティブは低下してしまうのではないか。これが北京側の意見でした。

一方何故北京大学の女子生徒が東京大学より多いのか、という理由としては、①社会主義思想に加え、②一人っ子政策、が挙げられました。

第一に挙がったのが、第二次世界大戦後の中国の社会主義政策です。この政策では行政組織の社会主義的建設が行われただけでなく、国民単位での思想変革も重視されました。この変革により、中国では男女とも同じ人間であるとして平等に尊重されることになりました。儒教的思想が求めるような典型的女性像、つまり「女は家庭に入って家の内から家族を守る」という考えは壊されたのです(北京側は文字通り、destroyという単語を用いていました)。

二点目として、一人っ子政策が挙げられました。一人っ子政策では一般的に、一人の子どもに四人の祖父母がつきます。子供や孫の世話を一緒にすることは家族にとって幸せなことである、という中国の考え方もあいまって、一人の子どもが家族の中心として可愛がられることになります。まさに、「小皇帝」「小皇后」の誕生です。このような状況では、一人の孫・子供が男の子であれ女の子であれ、愛情、金銭、時間、全てがその子一人に注がれることになります。従って子どもが男女どちらであっても、最善の教育機会を提供するインセンティブは変わりません。

このような社会的背景・制度的背景により、北京大学東京大学における女子大学生割合に差が出たのではないか、というのが私たちの議論の結論でした。議論も盛り上がり、私自身議論を通して多くの発見がありました。

しかし、「北京側と議論をできて良かった」と思えた理由は、単に興味深い発見ができたから、というだけではありません。議論をする中で相手の立場を理解し、その理由を探ること。このプロセスが、凄く面白く感じられたのです。

議論中、初めにデータとしてのファクトを北京・東京大学両者で共有し、お互いの立場を理解しました。しかしながら、私たちの議論は、ファクトの共有で留まらず、その先に進んでいきました。何故このようなファクトが生まれたのか、どうして両者に違いが生まれたのか。両者を一概に否定するのではなく、「何故」を掘り下げての考察していくことを、丁寧に行っていきました。このプロセスこそ、gender間のバイアスを読み解くうえでも、更には日中間の違いを考える上でも、何より大切なことなのではないかと、議論を通して私には感じられたのです。

f:id:jingforum2017:20170915112119j:image写真はジェンダー分科会のメンバーです。

ここまで、大学における女子学生比率に関する議論内容をつらつらと述べてきましたが、最後に、北京セッションで出た印象的な言葉を紹介したいと思います。その言葉とは、“In order to achieve “gender equality ,” men and women don’t have to be exactly the same.”—ジェンダーイクオリティを実現するために、男性と女性が全く同じになる必要はない—です。議論が行き詰った時、Eddyが何度も口にしていたものです。この言葉が、gender equalityの議論においても、さらには日中の間にも、必要なことかもしれません。


北京セッションが終わって一息つける、と思ったのも束の間、あと三週間ほどで東京セッションです。北京セッションで得た気づきを大切にして、心新たに東京セッションでも議論を続けていきたいと思います!


文科一類1年 鎌倉萌江