京論壇2017公式ブログ

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東京セッション報告⑥

最近とても寒いですね。私は目が覚めてからベッドを出る時間が倍増しましたが、皆さんは如何でしょうか。さて、今回は エリート主義分科会の議長としてセッション中の所感を2点述べさせていただきます。先に断りを入れておくと、今回の記事は議論の要約ではなく私個人の所感に過ぎないということをご了承ください。

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まず1点目はキャリア観についてです。端的に申し上げると、北京大生は東大生と異なりエリートと自己認識することは少ない一方で、似たようなキャリア観を持っていると感じました。具体的に言うと、文系東大生の一般的なキャリアは外資系企業、官僚、大企業が依然として人気です。北京大側の参加者によると中国でも外資系のコンサルティングファーム投資銀行に優秀な学生が殺到するようです。このように非常に高い競争率を持つ企業に多くの学生が殺到する状況は似ています。確かに中国の方が所属学部およびコネが重要である点、日本の方が東大の就職におけるブランド力が強く、官僚や日系企業を含め人気のキャリアがある種多様である点は異なるでしょう。ただ彼らの中には将来の 経済分野での激しい競争に進んで参加するものが多く、彼らは将来が不確実性の高いものだと認識している点で非常に似ています。彼らは意図的に「エリート」になりたいとは思わないが、教育分野の「競争」に勝利した勲章である「学歴」を大いに利用し次の激しい「競争」にあえて参加することで、結果として「エリート」だと見なされうる社会的地位を得ようと奮闘するのです。北京大側参加者曰く、中国の技術官僚のように安定性があるが将来性のない仕事とコンサルタントのように将来性があるが安定性のない仕事なら後者を選ぶとのことです。将来性とは何でしょうか。次の競争に勝つための武器でしょうか。そもそも何のために競争をするのでしょうか。プライドのためでしょうか。高収入を求めているのでしょうか。一度乗ることができた「エリート街道」から降りたくないのでしょうか。それとも「競争」することそのものが自己目的化しているのでしょうか。北京大生の意見にこのような疑問を抱くとともに、私自身も「競争」から逃れたいのに逃れられないジレンマを抱えていると感じました。


2つ目は「リーダーシップ」についてです。ある組織の中で一部の構成員が他の人よりも多くの役割を担う必要があるのかが論点になった時がありました。例えば、原発の再稼動など社会に属する人すべてに大きな影響を与えるイシューについて政治家が主導で判断して良いのか、それとも国民投票を行う必要があるのかであります。皆さんはどのようにお考えでしょうか。私はこの論点に関して議論ではなく議長経験を通じて私の価値観の変化が起こりました。議長として議論をファシリテートする際には全員の意見を集約する必要があります。ただ全員が賛成できる結論に至ることは困難です。したがって議長として私がある程度強引に議論を引っ張っていくことにしました。組織全体に責任を持つ一部の人間が組織を統率することはこのように効率的なのです。 ただ特に国家のように多くの人数で構成されている組織で、この形態が過度であれば、多数の意見を反映しなくなります。一方で、全てを多数決で決定する組織は一見優れているに思われますが、少数者の意見を無視した多数者による専制が起こる可能性、責任の所在が不明確な意思決定がなされる可能性を否定できません。どのように意思決定を行うべきかという論点は国家においても会社においても重要なものです。私は議長経験から他の人より多くの責任と裁量を持つ構成員が組織を率いることは回避できないと考えるようになりましたが、社会に生きる一人の人間としてこれからもこの難題に幾度となく直面するでしょう。


 議論系団体での議論は私にとって「あたりまえ」を疑うきっかけです。今回の議論に限ると、リーダーシップの取り方や政治参加のあり方、また私の就職活動、ひいては今後のキャリアパスについて再考する機会を得られました。これらの機会は日頃から無意識に直面している「あたりまえ」を疑うことから始まるのです。数ある議論系団体の中でも弊団体は価値観ベースの議論を重視しているので「あたりまえ」を疑うチャンスに恵まれていると言えるでしょう。議長として議論に関わることができて非常に光栄でした。また弊団体を支援してくださった全ての皆様に感謝申し上げます。

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教養学部4年 松熊利樹